うつ病みの日々のあれこれ

うつ病みが日々のあれこれを綴ります

自分の街ではなくなる印象

数年間仕事で静岡県に居た以外は、地元で暮らしている。いわゆるジモティーだ。だが最近、地元の街なのにどこか自分の手から離れていくような寂しさがある。

20代30代の頃は、市民団体が主催する街づくりのシンポジウムやワークショップに積極的に参加して発言してきた。そのいくつかが行政の関心を引いたこともある。その頃は自分の街は自分で創るという実感があった。

その後、うつを発症した影響もあって、シンポジウムなどには参加しなくなったが、それよりもそれらシンポジウムの開催も低調になった感がある。一方で、ここ10年ほどは、新幹線の開通や政令指定都市への移行などが契機となり、大規模な再開発が相次いできた。

ここで思うのは、街創りが市民の手からデベロッパーの手へと移ってしまったのではないかということだ。デベロッパーによる再開発、それは本当に素晴らしく私の目には眩しいほどだった。よくぞここまでの施設を造ってくれたものだと感嘆した。だが、私には眩しすぎて触れるのに躊躇するほどの気持ちになってしまった。

以前であれば、地元資本の(癖の強い)商店が街を彩っていた。そこに出入りすると自分の年上の身内のような店主が居て、商売以外の無駄話にも気さくに応えてくれる印象で、たくさんの街の商店すべてがどこか身内のように身近だった。

最近は、おそらく全国的な傾向だと思うが、個性的な地元資本の商店に代わって、全国チェーンが大挙して押し寄せてきた。再開発施設の多くにも「九州初出店!」を謳う店がオープンした。全国チェーンあるいは世界的なチェーン店も、洗練されて悪くはないのだが、地元民の手あかが付いたような親しみを持ちにくい。

相次ぐ再開発も商圏人口の多さに注目した結果だと思う。それは経済の論理からはしかるべき帰結だと思う。ただ、チェーン店が大挙して押し寄せるのは、経済力が地元から本社に吸い取られることにもつながるし、また経済事情次第で出店・撤退が相次ぐと街の一体感が損なわれてしまう。

少々危惧する点もあるが、ここ10年ほどで感じた変化は、街が成長して、地元での自給自足の経済から、外部で大きく展開する経済の一部になったということで、何らかの相転移が起きたということだろうか。それだけ大きな街になったと歓迎すべきことかもしれない。

だが、私には、大事に育てた子供が大人になって自分の手から離れてゆくような、少しの寂しさがあるのだ。

 

以上。2022.06.12