うつ病みの日々のあれこれ

うつ病みが日々のあれこれを綴ります

距離を置く

昨日の銃撃事件、17時過ぎの死亡確認から以降、TV各局は追悼一色に染まった。偉大な人物を亡くした、と業績を礼賛する調子。眺めながら思った。「北朝鮮と同じだ」。

長期にわたり政権のトップにいて、外交や内政で様々なことを経てきたので、惜しい人を亡くしたと思う人はいるだろう。

だが私は距離を置く。感情に流されずに俯瞰する。光の部分もあれば影の部分もあった。昨日の報じ方は影の部分に目を向けていなかった。

モリカケサクラ等とうとううやむやのままに真相を語る人がいなくなった。

事件を、長期政権の結果と発言した立民党の小沢氏は、のちに泉代表から注意を受けたという。リベラルなはずの立民党とて自由な発言を統制するのか。寒気がする。

犯人の言うところによれば、事件の背景には政治的な意図はなかった。なので一部自民議員が「政治テロ」と言うのは的外れである。英国BBCは「暗殺」と呼んでいる。その方が自分にはしっくりくる。

母親が宗教にのめり込んだ末に破産したという。当初はその幹部を狙う予定であったが実行困難なためその宗教団体と関係がある元首相を狙ったと。

ただ、報道には「宗教団体と関係があると思い込んで狙った」とある。「思い込んで」、本当にそう言ったのだろうか。「思い込んで」なら真実は別にあることを知っていたことになる。ならばなぜあえて真実でないターゲットを撃ったのか? 不自然ではないか。「思い込んで」は報ずる側の脚色ではないのか。被害者と宗教団体とが無関係であることを強調するために。

犯人は、被害者と宗教団体が関係あると「思ったので」撃った、と言うのが自然ではないか。報ずる側に依然何らかの力が及んでいるのではないだろうか。

このような疑問点が湧いてくるけれど、世の中は追悼の雰囲気に染まっている。この事件は明日の選挙に影響を及ぼしそうである。弔い合戦の様相で不気味である。

世の中が、特定の一色に染まることほど危険なことはない。歴史上いや世界で現在進行中の例が多々ある。

だから、距離を置こう。感情に流されず俯瞰しよう。

 

以上。2022.07.09