うつ病みの日々のあれこれ

うつ病みが日々のあれこれを綴ります

100記事目

今日の記事で100記事目である。節目だが、残念ながらうれしいとは思えない。昨日までの記事をざっと見直して、読むに値する記事なのかと問われれば、回答に窮する程度でしかない。

以前にも書いた通り収益化など考えていない。出発点が備忘録なので、読んでもらえるだけでもありがたい。欲を言えば、記事によって読んだ人に何らかのインスパイアを与えられたら良いな、と漠然と思っていた。

とはいえ、これからも書き続けますので、そんな良いブログになれるよう応援いただけると幸いです。

話は全く変わり、先日国連WFPから寄付のお願いのDMが届いた。世界の途上国の多くで飢餓が起こっている。それは理解している。少額ながら寄付をしたけれど、この日本でも餓死するほどの貧困が広がっていると考えると複雑な気持ちになる。

スラムとか貧民窟とかは表面上目につかない。けれど個々人の生活を追跡すれば貧しさゆえに食事を我慢している人は意外に多い。私自身、低所得なので昼食の額に上限がある。通勤途中に昼食を買いにコンビニへ立ち寄るが、定価販売なので思いのほか高額になる。バーコード決済のポイントで2円引きになるが焼け石に水のようなものだ。

学内の生協の売値も大手コンビニと大差ない。品数を選べる学食ならば少しは安くあげられるだろうが、毎日食事時間帯は長蛇の列。暑い時期や雨の日には並びたくない。

サンドイッチ一つとおにぎり二つ、こんな炭水化物に偏った昼食を続けているせいで、血糖値やコレステロールの値が異常値に達してしまっている。飢餓ではないけれど、健康的な生活ができないでいるし今後もできないだろう。

選挙では貧困の広がりは全く争点にならなかった。争点にされたら困るので隠したと言うべきだろう。そして今後も何も変わらず貧困が静かに広がり続けるだろう。海外ならば、金がなくても食べるものがなくてもエネルギーのある若者はいる。だがこの国には声を出すエネルギーさえ人々から失われたかのよう。あるいは声を出してもスルーされるゆえ余計なエネルギーを使わないようにしようとセーブモードなのか。

貧しければ立候補すらできない。つらい人々の心を揺さぶるような声を持った人であっても、何らかの選挙に立とうとすれば、供託金をはじめ選挙運動には1000万円単位の資金が必要だ。それでは生活に困っている人は選挙で声を上げることすらできない、声を上げているのは資金や知名度に恵まれた世襲のドラ息子たちばかり。それがこの国の実情なのだ。

貧富の固定化と再生産、あるいは階級社会化へ向かうだろうか。階級社会へと退行し、一握りの市民階級が大量の奴隷を使い捨てにする社会、たとえば古代ギリシアのスパルタのような社会へとなったら。スパルタは軍事的には強かったが後世に伝わるような文化は何一つ生まれずまた残らなかった。

革新的な技術や豊かな文化は、一つの発想を活かせるかどうかで決まる。発想は一人一人分け隔てなく湧き上がる機会がある。だが広範な貧困ゆえ、発想が生まれてもすぐに消えてしまうような社会では文明も文化も滞る。

この国は、20世紀までに積み上げてきた文化を少しずつ食いつぶして生きながらえているように思える。これから先、新しい文化を創り出すことができるだろうか。

 

以上。2022.07.11