うつ病みの日々のあれこれ

うつ病みが日々のあれこれを綴ります

働くのに向いてない

ソロキャンパーのヒロシが自身のことを「働くのに向いてない」と言っていた。あー、なるほど、そういうとらえ方もあるな、と思った。

スポーツに秀でているけれど学問はさっぱりな人、あるいはその逆とか、人それぞれ向き不向きがある。働くことについてもそう。一生懸命働いてそれで充足感を得られる人と疲労しか残らない人、前者は讃えられがちだが後者は非難される。だがそのような評価は、例えば作曲家に絵画を描かせて出来をうんぬんするのと同じことではなかろうか。

勤労は義務だから仕方ないとしても、その作業を行うにあったっての気持ちの持ち方は各個人で自由であるはずだ。つらい重労働を喜んでやるように仕向けるのは、北の国の思想改造であって、この国では許されないことだ。だが企業の新入社員研修などでは同様のことが当たり前に行われている。

例えば自衛隊体験入隊とか、業務には全く役に立たない研修プログラムがあったりする。自己啓発セミナーに出席させ労働奴隷へと洗脳する悪質な企業も存在する。

働くことなど、収入を得るために必要なだけであって、そのために心身を捧げてしまう必要などない。なので働くのに向いてない人は日本社会に蔓延している「労働教」という宗教から脱会すれば良い。

働くことは貴いことではない。上の立場の者がその労働で得た利益を坐したまま吸い上げる構造が出来上がっている社会なので、吸い上げられたくなければ人の下で働くべきではない。自身の才能を全て収入に変換できる自立した存在になるべき。

大きな企業に入ること、あるいは公務員になること、それが優秀な学生の目標となって、自ら進んでピラミッドのパーツの一つになるのが将来の社会のためであろうか。

意外と学生もそのことに気付き始めていて数年企業勤めをして独立する動きもちらほらある。仕事そのものの他に自身の価値観を重視して、狭苦しい都市部を脱出、さらには息苦しい日本社会から脱出、そんな動きもある。

生産性という尺度で人の働きを見ると、最も生産性の高い作業はマニュアル通りの単純作業の繰り返しである。だがそのような労働はいずれ機械なりAIなりに置き換え可能だ。そうなると人が働く場は、様々なことを考え試行錯誤して結果として良いものが得られるかどうかも不確実な点で非常に生産性が低くなる。少なくとも現在では生産性が低いと評価されている。

だが、人が自らの能力や技能を駆使して試行錯誤する作業に価値を見出さない社会は貧しい。結果や成果ばかりを要求するのでは本来人間としての価値がある行為の裾野が広がらず、貧しいままであろう。

私は、成果を要求されるばかりの労働には全く向いていないし、拒否したい。だが人間らしい無駄な努力や悪あがきならたくさんやってきたしこれからもやりたい。これからの世の中がそちらの行為に価値を見出すように、たぶん日本はならないだろうけど。