うつ病みの日々のあれこれ

うつ病みが日々のあれこれを綴ります

たまに宝くじを買うぐらい

ギャンブルには興味がない。ギャンブルの定義を広げれば、たまに宝くじを買う程度だ。

以前に比べてパチンコ店は大幅に減った。既存店舗も駐車場に空きが目立つ。競馬はJRAがタレント起用のTVCMを流してイメージアップを図っているが、賭け事である本質は何も変わらない。街なかに競輪の場外車券場があるが、そこに集まる者の雰囲気がその周囲の印象を悪化させている。

一攫千金、わずかな労力で巨大な富を手にできる、夢みたいなことだけれど夢に終わらせず現実生活にその思考を持ち込むのは害悪以外の何物でもない。

ギャンブルは娯楽である。それを業として行うプロはいるがそれは一部だ。だが世の中には実経済に関わる賭け事もある。投機と呼ばれるものだ。かつての不動産バブルなどは典型だ。他には、株式投資と、投資と名がついているが実体は勝つか負けるかの賭け事に他ならない。

機関投資家と呼ばれる存在は、膨大な情報を分析し常に最適解を求めて売買を繰り返す。その存在は圧倒的であって、大量の個人投資家の存在など埃ほどのものだ。銀行、保険会社などの他、国も「財政投融資」と称し、国民の税金を賭け事に使っている。そして過去に多額の損失も出している。

ギャンブルは中毒性がつきものだ。精神思考を狭窄させる。負けが込んできても次は絶対勝つと根拠のない確信が湧いて出てきて、さらなる負けの連鎖となる。

かつて損失を出した財政投融資は幸運なことに後に負けを取り戻した。だが、元々そのお金の出どころは国民の血税である。賭け事に使われるとは、まじめに働いてきたことがあざ笑われるようで甚だ不愉快だ。

国家財政から株式や不動産投資へ支出している国は他にもある。例えば、産油国のように潤沢な国家財政収入がある国だ。そのような余裕のある国ならマネーゲームをしても国民の不信を買うことはないだろう。

だが、毎年毎年赤字国債で当座をしのいでるこの国がマネーゲームをしているのは、例えるなら生活苦の極貧家庭で父親が家族の静止を振り切ってギャンブルにのめり込むような画ではないか。そして負けが込んでくると「この道しかない!」と思考狭窄に陥って家族から貯金箱の小銭をも巻き上げる。

個人情報は金になる。そのことに気付いたから躍起になって吸い上げようとしているのだろう。EU諸国のように、自分の個人情報に誰がアクセスしたのか履歴が見られる仕組みもなく、また悪質と思われるアクセスを遮断する権利もなく、結局自らの個人情報への自己決定権を欠いたシステムとなっている。制度設計時点で個人情報を加工転売する意図が透けて見える。

私のように先がそんなに長くない者はもう良いとして、普段接している素直な学生たちが国の害悪に巻き込まれると想うと本当につらい。

 

以上。2022.10.14